星座をおぼえる(おおいぬ座)

先日の夜の10時ごろ、外に出て立ち小便をしていたら、空がよくはれていて星がたくさん見えた。
南にでーんとオリオン座が居座っているのが、まず目にとまる。オリオン座のまっすぐ左下の先の方に、とても明るい星が輝いていて、さらにその先(左下)に小さな三角形のかたちに星が3つ並んでいるのが目についた。
(画像は、はてなダイアリーのおえかきツールで描いた。)

田舎の夜空はじつにたくさんの星々がよく見えるので、もうちょっと星座を覚えたいなぁと前々から思っていた。夜空を見て分かるのは今のところ、オリオン座と、さそり座と、おおぐま座の北斗七星くらいしかない。
で、調べてみると、オリオン座の左下に位置する星座は「おおいぬ座」だということを知る。明るい星は「シリウス」という星で、おおいぬ座の鼻のところに当たる。三角形は、いぬの尻尾と後ろ足を成している。

冬の夜はとても寒いけれど、こうして星の絵が描けるくらいに星の位置を記憶しておいて、ブログに星座の絵を描いてみるまですると、さすがにしっかり覚えられる。
星座をたくさん知ったうえで夜空を眺めると、きっとまた違った見え方が出来るんじゃないかと思う。

ブログは娯楽

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ブログの更新は20〜30分でささっと記事を書いて終わりに出来ればいいと常々思うのだが、実際にはかなり時間がかかる。2、3行の内容にすればずっと短い時間で済むんだろうが、それだと書いた手応えがなんだか乏しいので、ついついそこそこ長くなる。
昨年の10月に、3年ぶりぐらいにブログの更新を再開したときには、書きたいことがけっこうたくさん自分の中にあるような気がしていたが、いざ始めてみると10日もしないうちにネタが尽きた。今日は何書こうと思いを巡らし、一つのネタを絞り出して、書きたいことの核のところをなんとなく掴むために脳みそをこねくり回していると、20〜30分なんてすぐに過ぎてしまう。
自分は何のためにブログを書いているんだろう、とある日考えてみたのだが、答えはわりとすぐに出た。何かのためという訳ではなくて、自分にとってはブログの更新は娯楽の一つなのだ。ネット将棋を毎晩やっているのと一緒で、ブログを書くことそれ自体に楽しみを感じるからやっているんだろうと思う。
頭の中の「書きたいこと」に、なるべくぴったりはまる言葉、なるべく素直な表現、なるべく正確な形容詞を、自分のささやかなボキャブラリの引き出しの中からあれこれ持ち出して入れ替えて、小さなジグソーパズルを完成させるように一つの記事を書き上げたときには、たしかな(自己)満足を味わえる。またその過程についても、各々のピースを組み上げていくことに楽しみを覚える。そして、更新した後には自分のブログのページが昨日よりも新しくなっていることが単純に嬉しい。
今さら何を、と言われるかもしれないが、自分にとっては「ブログは娯楽」だと気付いたことは、小さな発見だった。

100日継続

101日間継続中


たしか小学生の時だったと思うが、担任の先生が「何でも100日継続できたら後はずっと続けられるものだ」と黒板に白チョークで「100日」と書いて話していたことを、おぼろげながらに覚えている。
このブログの更新が100日継続できた。今日が101日目かそこらだ。50日を超えたあたりから意識し始めて密かな目標としてきたが、なんとか達成することが出来た。達成感もそれなりに感じる。
Audible で糸井重里さんの「小さいことばを歌う場所」を聞いていたら、『なんにも書くことが浮かばない日ってありますよね。でも本当に書くことがないわけじゃないんです』みたいなことを本人が朗読していた。文章の重みだとか、世間からの希求され具合だとかは明らかに違っても、それよく分かるなぁと思いながら聞いたので、ぴしゃっと記憶に留めている。
実際、今日は何にも書くことないなぁと思った日が何日もあった。しょうがない、あの事でも書こうかと思っても、どうもしっくりこなくて別の事を考えたりして、パソコンの前で無為な時間をずいぶん過ごしてしまった気がする。
なので、これからは書きたいことがある時だけ書くようにしよう。100日継続できたらその後はそうしよう、としばらく前からずっとそう思ってきた。
それはそれとして、こうして小さな目標を一つクリアできたことは、小さな一つの自信になる。次の他の小さな目標もクリアできそうな気がしてくる。継続の力というのは、あなどれない。

鑑定士と顔のない依頼人

iTunes で鑑賞。

鑑定士と顔のない依頼人 [Blu-ray]

鑑定士と顔のない依頼人 [Blu-ray]

じわっと心に染み入るような、映画臭の強い、いい作品だった。
昔、広島の鷹野橋という商店街脇にサロンシネマという名前の、映画の臭いが隅々まで染み付いたようなとても雰囲気のいい映画館があったのだが、その映画館でこの映画を観たらもっとずっと深く味わうことが出来て楽しめただろうなという気がした。やっぱり映画は映画館で観てこそ、その正当な価値を評価できるのだろうと最近しばしば思う。
ストーリーについては、このまえ読んだ「女のいない男たち」(村上春樹 著)をふと連想させるような話しだった。アイドルのポスターとかインターネットが無い時代のことを考えれば、こんな男がいたって全然不思議じゃない。個室にこもり、ひととき自分だけの世界を堪能する主人公の幸福感は、なんだか憧れを感じるほどに共感できるところがあった。
この先は、何を書いても映画の肝心なところのネタバレになってしまいそうで、キーを打つ手がどうにも重い。
でも、主人公(鑑定士)の人生としては、果たしてどちらが本当に幸せといえるのだろうかと考えてしまう。じゅうぶんなお金と名誉を手に入れたのだから、あとは孤独で少々寂しかろうが、波風のない平穏な日々をおくって静かに幕を閉じることが堅実で確かな幸せだという気がしないでもない。でも、よく言うようにあの世にはお金は持って行けない。名声も、膨大なコレクションも一つだって持って行けない。最期の死の間際に心に持ち出せるのは、当人の思い出だけだ。一人の現実の女性を愛したという思い出は、主人公の心をいくらかでも温めることが出来るのだろうか。そんな事をあれこれ思うような余韻の残る、鑑賞後にも後味がしばらく続くような良作の映画だった。

1月の将棋戦績

棋力グラフ


1月1日から31日までネット将棋で38回対局して、戦績は17勝21敗。
どうもぱっとしない。必死に棋力向上の努力をしているかと聞かれれば、必死にはやっていないんだけど、負け越しの数字というのはけっこう悲しい。
最近になってようやく、養老孟司さんの本のタイトル「バカの壁」の意味を知ったが、そのバカの壁に突き当たったんだろうか。
2月は一日一問(以上)詰め将棋を解くことを日課として、もうちょっとがんばってみよう。
右上の画像は、昨日の日記に書いたレーティング値のグラフ。はたして2月の末日にはどんなグラフになっていることやら。

はてなグラフで棋力グラフ

1か月くらい前から、はてなグラフを久々に使い始めた。「ひょっとしてはてなグラフはサービス終了したんじゃ…」とか思ったりもしたが、ちゃんとまだ存在していた。自分のずいぶん昔のグラフのデータもちゃんと残っていて、そういえばこんなグラフつけてたなぁと懐かしかった。
で、何に使い始めたかというと、毎晩やっているネット将棋の持ち点(レーティング値)を記録して、棋力の上がり下がりを可視化している。対局に勝てば値が上がり、負けると下がる。

赤い線が6級のライン。その上の上の灰色の線のあたりが5級のライン。
こうして見ると、わずかではあるが右肩上がりのグラフといえなくもない。ここのところは勝ったり負けたりの繰り返しで、将棋が強くなっている実感はほとんど無いのだが、このグラフからは「その調子で地道に頑張りなさい」と言われているような気もしないでもない。
はてなダイアリー(orはてなブログ)やフォトライフと違って、こんなグラフは検索にもまず引っかからないだろうし、そのグラフをつけてる当人にしか価値がない場合がほとんどだろうし、まさに入会特典みたいなサービスだと思うが、これも無料で使えるんだから有り難いことだ。

女のいない男たち

村上春樹 著「女のいない男たち」を読んだ。

女のいない男たち

女のいない男たち

タイトルから、本当に女っ気のない男(たち)が登場する話しかなと想像していたら、ぜんぜんそんな事はなくて、正確には「(昔はいたがある時点で失って今は)女のいない男たち」の話しだった。考えてみれば、かつて村上春樹の小説に女っ気のない男が主人公の話しなんてあったためしがないような気はする。
たとえば”フルーツキャンディー”というパッケージの中の6種の味の飴玉のように、6編の物語それぞれに独特な味わいがあって楽しめたけれど、特に気に入ったのは「シェエラザード」と「木野」かなと思う。
シェエラザード」は、読み進んでいるときに本当に自分もドキドキした。そういう意味でとても魅力的な話しだった。終わりの辺りで、『誰もが人生の中で、一度はそういう出鱈目な時期を通過するのかもしれない。(中略)ねえ、あなたにはそういうことってあった?』という問いかけがあるが、僕にもそういうことはあった。とても人に話せるようなことではないけれど。
「木野」は、読んでいて少し懐かしい感じがした。小説の世界観とか文体とかの中に、昔の村上春樹の短編小説に近いにおいを感じたからかもしれない。物語の半分か、3分の2くらいまではとても好きなんだけど、終わりがどうも消化不良気味で、自分の中の納得のいくところにまだ落ち着いていない。気に入った味の飴玉を途中でふいに呑み込んで、喉に詰まらせてしまったみたいに。
短編小説のいいところは、自分の好きなときに2回でも3回でもわりと気楽に読み返せることだ。
次に読む本は(いよいよ)「1Q84 BOOK 3」と決めているが、それを読み終えたあとに、またこの短編集を読み返してみたいと思っている。