ずっと前に書いた短い小説(のようなもの)

s_kanda2006-09-23


5年前くらいに友達と短い小説を書いて見せ合いこしていたことがありました。これはふと思い立って書いて、でもなぜだか誰にも見せないでずっと自分のパソコンの中に置いておいたものです(ファイルの更新日時は 2001年6月10日 23:53 となっている)。書いたときのままを載せたので、拙い文章ですが、暇で興味のある人は読んでみて下さい。


***


「猫と男」


 太平洋をヨットで横断しようと海へ出た男がいた。男の乗ったヨットは太平洋のど真ん中で猛烈な嵐に遭い、転覆してしまった。男は木片につかまって二日間海を漂い、三日目の朝になんとか小島に辿り着いた。その小島は無人島だった。男の無人島生活が始まった。
 最初の一日目は全身を襲う疲労のためまったく体を動かすことができず、砂浜に倒れこんだまま時間が過ぎた。次の日の昼に強烈な日差しを瞼に感じて目を覚ますと、今度はどうしようもないほどの空腹感が襲ってきた。何でもいい、とにかく口に入れて飲み下すことのできる物がほしかった。しょうがなしに男はそこら辺に生えている草や葉っぱをかじり、気休めではあるにせよ一時的に空腹を静めることができた。そして男はやっとものを考えることができた。いったいここはどこだ? おれはどうすればいい?
 七日間、なんとか生き延びることができた。男はタフだった。自分でもうまく信じられないほどにタフだった。なにがそうさせるのかは分からないが、生き延びようとする強い力が彼を動かしていた。死ぬのがただ怖かったのかもしれない。わずかな望みを常に心に刻み込んでいたのかもしれない。
 男は食べることのできる木の実を見つけ、飲むことのできる水を見つけた。寝床にできる小さなほら穴も見つけた。


 島に辿り着いてから十日目が終わろうとする日の夜、聞き覚えのある鳴き声が林の中からかすかに聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、その鳴き声はしだいにはっきりと大きくなっていった。それはこっちに近づいてきていた。辺りは満月の光に照らされて夜にしては明るかったが、なかなかその姿を見定めることができない。男はなぜか恐怖を感じなかった。そして恐怖を感じていない自分に気付いた瞬間、その鳴き声が猫の声であることを思い出した。林の中で二つの目が光った。男はその光に近づいていった。そこには丸々と太った大きな白い猫がいた。猫は低いかすれた声をあげながらゆっくりと男に歩み寄ると、頭を男の足にこすりつけて目を細めた。男は呆然と立ち尽くした。この猫は明らかに人間に慣れている。なぜこんな無人島に猫がいるのか。なぜこの猫は人間を怖がらないのか。なぜ食べるものもろくにないこの島でこの猫はずんぐりと太っているのか。さっぱり訳がわからなかった。
 しかしとにかく生き物と会うことができた。しかもそれは敵ではなく、よい仲間になってくれそうだ。人間ではないが、少なくとも語りかけることのできる相手が出来た。男は30キロはありそうな猫を抱きかかえてほおずりをした。猫は目をきゅっとつむってゴロゴロとのどをならした。


 猫はほんとうに男によくなついた。男がどこへ行くときもついて歩いたし、男が眠るときは傍にうずくまって一緒に眠った。男も猫にいろんな話しをした。ヨットに乗っていろんな海を渡ったこと。いろんな国へ行っていろんなものを見、いろんな人に会ったこと。子どもの頃のこと。これまで愛した女のこと。これからやりたいこと。まだまだ自分にはやり残した事があること等々……。男が話しをしている間、猫はじっとうずくまって耳を立てていた。時々、自分が話していることを猫は理解しているのではないか思うこともあった。男はその猫に「さくら」という名前をつけた。


 一か月が過ぎた。島の中の木の実もなかなか見つけることができなくなった。長い間雨が降らないせいで、飲み水を探すのもやっとだった。男は痩せこけて、立って歩くこともままならなくなった。かすんだ瞼の中に猫の姿が映ったとき、猫を殺してなんとか食べてみようかと考えることが何度もあった。しかしそのたびに、男はやっとの思いでその考えを振り落とし、この猫だけはどんなことがあっても殺すまいと自分に誓った。男にとって猫だけが唯一の心の支えだった。
 猫はどういうわけか丸々と太ったまま痩せることがなかった。磯にいる蟹をつかまえて食べたり、浜辺に打ち上げられた死んだ魚を食べたり、ときどき木の皮をかじったりしていた。島の中で生き抜く術を身に付けているようだった。しかし火を起こすことが出来ない男は、腐りかけた生の魚を食べたり、蟹や貝を生のまま食べることはどうしてもできなかった。いちど生の魚をかじってみたことはあったが、とても食べられたものではなく、すぐに吐き出してしまった。男はどんどん痩せていき、一日のほとんどをほら穴の中で眠ってすごすようになった。まともに体を動かすことも難しくなっていた。


 ある夜、男はするどい痛みを感じて目を覚ました。右足の太股の肉が切れ、血が流れている感触がある。最初、何か大きな虫に噛まれたのかと思った。しかしその痛みはあまりに激しい。イタチかキツネのような動物にやられたのかもしれない。あるいは狼か山犬かもしれない。辺りは薄暗くて何も見えなかった。男は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。急に体が寒くなった。冷たい汗が額を流れた。男は体を引きずるようにしてほら穴から這い出ようとした。再びなにかが足に噛みついた。男はぎゃっと悲鳴をあげた。必死になって両腕を動かそうとしたが、うまく体に力が入らない。鋭い爪が足に突き刺さった。そして太い牙が男の足の肉をえぐった。男はあまりの痛さに意識を失いそうになった。その時、男は闇の中に光る二つの目を見た。低い唸り声を聞いた。その声は聞き覚えのある声だった。男の目から涙が流れた。